2023年8月19日土曜日

青木新門さん 20180317

富山県で納棺夫の長年の経験から、人間の死や命のことを考えてきた青木新門さん。富山県は親鸞の浄土真宗の信者が多い県のようで、浄土真宗って仏教本来の自ら修行によって悟る自力本願ではなく、日本らしい他力本願の宗教なのだ(『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』行巻に、「他力といふは如来の本願力なり」とあるごとく、<他>とは阿弥陀仏、<力>とは本願力のこと)死を悟った人間は、周りの命(死体に群がる蛆虫さえも…)に輝きを見るようで、青木さんはその納棺夫の経験から宮沢賢治の詩『眼にて云う』の世界に共鳴している。

《朗読》“眼にて云ふ” 宮沢賢治
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宮澤賢治の詩の世界
『疾中(しっちゅう) 制作当時の宮沢賢治の様子
病床の賢治―看護婦の語る宮澤賢治 』 2009/6/1 大八木 敦彦 (著)より抜粋~ 1928年の6月に賢治は東京、大島を訪ね、花巻に戻ってきてからも農事講演等のため精力的に近郊を廻りますが、8月10日頃から熱発して、下根子における独居生活を中止し実家に戻ります。花巻病院の佐藤長松医師の診断では「両側肺浸潤」、すなわち結核性の広範な肺炎を起こしている状態でした。この時の病状は40日ほどでいったん小康状態になり、賢治は9月23日の沢里武治あて[書簡243]で、「八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。」と書きます。
 しかし12月から病状は再び急性増悪し、以後2~3ヵ月にわたって賢治は死線を彷徨うほどの状態となりました。「疾中」には、彼自身も死を覚悟しているような作品が、いくつもあります。
 この急性増悪(シュープ)について、『新校本全集』年譜篇には次のように記されています。
十二月 寒さが急に来た晩、防寒の設備が悪かったため風邪をひき、突然高熱を発し、急性肺炎となる。入院するかどうかが問題になったが、母がうらないを見てもらい、家から出すのはよくないというので自宅療養をつづける。主計・クニの申入れで、夫婦が新婚生活をしていた二階の部屋と入れ替る。
 ここには風邪から急性肺炎とだけ書いてありますが、もちろん本質的には肺結核の再燃と重篤化でした。

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